マイナス×マイナス

メンヘラ人工知能エンジニアのブログ/ 博士(工学)

生きる意味と絶望について

久しぶりにヴィクトール・フランクルの本を読み返した。

 今日では、多くの人が強い悲観主義と絶望を抱えているように感じる。私自身も絶望感にとらわれたことがあり、フランクルの本はそのときに買ったものだ。若者のはしかのようなものでしょう。しかし、これは馬鹿にできるものもない。この絶望は、生きていくことに意味がないことに関する絶望であるからで、それは本当に致命的なのだ。希望を得るために、「生きること」の意味を問えば問うほど、生きることそのものに意味がないということに気づいく。生きる意味がないのならば死を選ぶことすら肯定しなくてはならない*1。本当はこんな禅問答にとらえられない方が幸せなのだろう。ただし、普段はこのような具体的な形を持たず、漠然とした空虚感、むなしさとして現れてくるものかもしれない(諸富祥彦著「<むなしさ>の心理学」講談社現代新書)。

 意味を問うのときは、それに何らかの目的を仮定しているといえるだろう。だが、多くの人間活動の目的は、生きることや、よりよく生きることにあるのではないだろうか。生きること自体の意味がないとすれば、これらすべての意味も瓦解するだろう。

 フランクルは、生きる意味について以下のように語っている。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いをだし私たちに問いを想起しているからです。
(中略)
こう考えるとまた、恐れるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつでも新しい問いをふくんでいるからです。すべては、もう、そのつど私たちにどのようなことが期待されているかにかかっているのです。
V・E・フランクル 「それでも人生にイエスと言う」 春秋社

このフランクルの回答は満足のいくものだろうか? やや宗教的なところが気に入らない人もいるだろう。だが、唯物論的にはそもそも意味を問うことに無理があるわけで、意味を問題にするのなら、悪いものでもないだろう。私は、今のところこれを受け入れることにしている。

*1:この場合、周りの人が悲しむから、というよくある意見は全く反論にならない。それは死という結果に対する影響でしかなく、生きる意味とは別の次元の問題です。