病名だけを理由にした差別はゆるさない
これを読んだ。
「統合失調症の石田(仮名)」
病名による差別はゆるされない。そしてみんなこの病気のことを知らなさすぎる。
一人の人間の状態に応じた対応が必要なのだ。なぜこんな当たり前のことがわからなくなっているのだろうか?
この病気は罹患率1%弱の慢性疾患だ。いつあなたの周りの人がかかってもおかしくない。病気の症状は患者によっておおきく異なる。そして、安定した状態にある患者が重大な事件を起こす可能性は低い。それがあるのは急性期といわれる一時期だけだ。多くの患者は寛解し、働けるようになる人もいる。
私が「病名による差別」と書いたのには理由がある。この病気にかかると極端に就職活動が難しくなるのだ。たとえ、寛解していたとしてもだ。そこで、患者は病名を隠して就職活動を行うことになる。病名をオープンにしたら、本当にがんばっている人が「病名」だけを理由にして就職できない。できても希望とは大きく異なる場所になるだろう。疾患からくる症状や薬の副作用にも立ち向かって努力してきたにもかかわらずだ。私にはそれがとてもよくわかる。
統合失調であることを隠してくれ、などというのは言語道断。それは先生の言うとおり信用問題に関わる。その問題の責任も自分が全て取るというなら話は別だが、まずそんな事は不可能だ。
病気を隠して生きることを人に勧めているが、結局そのツケは本人にいずれ回ってくる。
これを書いた増田は無知だ。病気による見えない(乾いた)差別を全く理解していない。この病気の差別は石を投げられるようなものでなく、周りのみんながいつか自分の責任問題になることを避けようとする、カラッカラのドライな差別だ。熱心に協力してくれる人は非常に少ない。結局、関係者は自己保身しか考えていないのだ。
紹介したから責任をとらないといけないのか?どこまでここは狂っているのか。私は自分のケツぐらい自分で拭くし、責任だってとる。なにか問題を起こして刑務所に入れというなら入ろうではないか。トカゲのしっぽ切りのような責任者の糾弾も悪しき慣習だ。
「その責任の問題もじぶんがすべてというのなら話は別だが」という。これはそのままの言葉を健常者たちに返そう。あなたは自分が起こした交通事故の責任を完全にとれるのだろうか?
だから、まともに生きようとすると選択肢は、患者たちの言葉で「クローズ」といわれる病名を隠して生きることしか(一部の例外を除き)残らない。こうした隠れた障害者たちは、いつもひっそり暮らしている。あなたの隣の人がそうかもしれない。
障害は見えず理解されることはない。なぜ、病気と立ち向かって生きているものへ賞賛ではなく、罵声を浴びせるのか。
いつかこれが自分の問題になるかもしれないということをみんな理解していないのだ。
ミスチルの終末のコンフィデンスソングを思い出した。
街中にゴシップが散撒かれてる 面白がって誰もがそれに火をつける 自分より劣ってるマヌケをあぶりだし ホッと胸撫で下ろしてる
また、有名なやつも貼っておこう。
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた