マイナス×マイナス

メンヘラ人工知能エンジニアのブログ/ 博士(工学)

精神主義への違和感

 この病気について、あるいは、個人的なことについていろいろな人と話す機会があったのだけれど、まれに精神主義的な思想を感じて困惑する。統合失調症は脳の病気であることが確かになったのだけれど、20世紀半ばに台頭したような人格の問題であるというような議論になることがたまにあるのだ。自分は統合失調症を経験したことがないのに、自分の経験をもとにして、アレのせいだとか自分はこうではなかったとか言うような精神論的お叱りをよく受ける。もちろん、一人一人苦労して生きてきたのだろうけれど、病気の苦しみと健康な人の精神的窮地からの脱出法とは関連がないように思えてならないのだ。これが悪意によってではなく善意によって行われていることが、私が困惑せずにいられないところなのだ。
 たしかに私の人格は未熟なのかもしれない。しかし、統合失調症は脳の器質的な病気なのである。そして、薬によって病状は緩和されるものなのだ。
 精神的な力によってどんな窮地も乗り越えられるのだというような主張をする人は病気になったことのない健康な人なのだろう。指を動かすのにすら全精力を注ぎ込まないといけないような無気力感や、過呼吸や動悸、胸の痛みを伴うような強烈な不安感を知らないのだ。精神的にも非常に苦しいがこれは私の精神が他の人に比べて脆いからというわけではないだろう。おそらく、どんなに精神的に頑健な人でもドーパミンが過剰分泌されたり、ドーパミンD1の機能が低下すれば同じような状態になるのではないだろうか?薬物によって神経伝達物質の異常を作り出せば、精神的異常をおこすだろう。人間の精神状態は神経伝達物質によって作りだされているのだ。
 こんなことを言うのは、私があまりに唯物論的であるせいかもしれない。精神的な面を完全に否定するつもりはないけれど、みんなそれを強く意識しすぎてはいないだろうか?この唯物論的思考はキリスト教徒としての私と葛藤をおこしていたりするのだが、これは別の話である。(私は人間の自由意志を否定してしないし、自由主義神学者あるいは道徳的キリスト教徒である。そういうのは、ほとんど無神教というのかもしれない。自由意志の問題には哲学的な興味をそそられる。)
 まあこの程度のことは、どうということのない問題ではある。明らかな差別を受けるわけでもない。まあ、治療中の統合失調症患者が見ただけでは健常者と区別が付いたりしないせいもある。そんなことよりも、これからどうやって生きて行くのかという現実的で経済的な問題があるのだ。